2018.12.06
【日替わりレビュー:木曜日】『みんなで辞めれば怖くない』中憲人
『みんなで辞めれば怖くない』
ひとり孤独に悩む人に
前職で退職を決意したのは、会社のトイレの一室の中だった。ずっと溜めこんでいた鬱憤が一気に噴出し、ひとりトイレに駆け込み、泣けるだけ泣いて、涙が枯れた頃には、なんだか爽やかな心持ちで「うん、辞めよう」と決めていた。張っていた心の糸が緩んだように、自分で自分のことを「別人みたいだ」と思ったのを覚えている。
もう3年以上も前のことだったが、中憲人先生の『みんなで辞めれば怖くない』を読んだとき、鮮明に当時の記憶が蘇った。
この物語は、社畜の主人公が、年功序列の古い体質の企業の中で、上司の理不尽な無茶振りに振り回されるところから始まる。とにかく作中の上司たちが、ひどい。部下のキャパシティを考えない仕事の命令から、飲み会での「俺の酒は飲めないのか?」というパワハラまがいのセリフ、自分のミスを部下のせいだと責め立てる傍若無人っぷりには、呆れ果てるが、作品の醸し出す異様なリアリティのせいで読んでるこちらも怖くて震えてくる。
そんな過酷な職場で働く主人公は、次第に心の中に不思議な現象が起こるようになる。多重人格のように、自分の言動にツッコミを入れたり、言動を支配してしまうほどのパワーをもった、別人格が次々と登場してくるのだ。ちなみに、一番最初に出てくる小学生の女の子については、作者のTwitterでぎゅっと短くまとめられたものを読むことができる。
— けん単行本 (@nomorehole2) 2018年11月20日
小学生の女の子がいうことは、正論である。しかし、正論だからといって必ず受け入れられるわけではない。むしろ理不尽が横行している職場では、下手なことを言えば返り討ちにあって悪者にされてしまう可能性も高い。主人公は小学生の純粋な疑問に対して「そういうものなんだよ」と返しながらも、しかし、もどかしさや葛藤を隠し切ることはできない。
小学生の女の子以外にも、とにかく暴力で解決しようとするバーサーカーや、苦しみを糧にする苦行僧、どんな無茶振りにも明るく返す野球少年など、様々なキャラクターが主人公の心の中に現れて、辛い局面を耐え抜いていく。耐え抜きながらも主人公の心は少しずつ消耗し、壊れていく。
世の中、「いまの会社最悪なんだよね」と愚痴をこぼす相手がいる人はどれだけいるだろう。むしろ、他人には語れず一人孤独に腹を痛めている人の方が、実はずっと多いのではないか。そんな人にとって、これほど優しく勇気を与えてくれる作品もなかなかない。
タイトルこそ「みんな」とあるが、ちょっと大げさに言うならば、これは一人の人間の可能性を大きく広げる一冊でもある。
帯の「コメディ」という言葉に騙されて(実際笑える部分はたくさんあるし、終始ポップなコメディ調ではあるのだが)読んでいた私は、少女のとある一言があまりにも鋭利に胸をえぐってくるから、少し泣いてしまった。孤独に頑張る人たちに読んでほしい一冊。
©中憲人/秋田書店