2021.05.03
【インタビュー】『チ。ー地球の運動についてー』魚豊「大地のチ、血液のチ、知識のチ。その3つが渾然一体となっているのがこの作品。」
舞台は15世紀のヨーロッパ。異端思想を持つ者が、ガンガン火あぶりに処せられていた時代。命の危険を感じながらも、天動説に逆らい、禁じられた真理“地動説”を研究する人間たちの生き様と信念を描く、『チ。ー地球の運動についてー』(以下、『チ。』)。
どのような思想や人生経験を積めば、この凄まじい物語を紡ぐことができるのか……『ひゃくえむ。』に続き、己の信念を貫く漫画『チ。』を描く作者・魚豊先生にインタビューを受けていただきました。
漫画を描くことへの情熱とこだわり、哲学への造詣とリスペクト、作者お気に入りのキャラクターが、意外なあの人物……!? 「週刊ビッグコミックスピリッツ」にて連載中の本作の制作秘話から人生論まで、魚豊先生にたっぷりお話を伺いました。
(取材・文:かーずSP/編集:八木光平)
拷問シーンは読者へのサービス……!?
──物語の冒頭。いきなり拷問シーンから始まる、衝撃的な幕開けです。残酷描写を冒頭に描くことで、読者を振り落とすような心配はなかったんでしょうか?
魚豊先生(以下、魚豊):これが予想外でして。僕、残酷描写があった方が読者が喜んでくれるだろうと、なんというかサービスシーンのつもりで描いたんですよ。そうしたら、意外と苦手な方もいらっしゃったという……(笑)。
──喜んでもらうつもりが、やっぱり抵抗があった人もいた(笑)
魚豊:そうなんですよね。「この漫画はこれがいいんだ!」って褒められるかと思ったら、そんなわけがなかった……暴力描写が苦手な人、ごめんなさいと思いつつ、このまま突き進むしかないんですけど。
ただ、冒頭にこのシーンを持ってくることで「この作者は何をやるか分からないぞ。この作品、この先に何があってもおかしくないな。」ってスリルは演出できているんじゃないでしょうか。
──前作『ひゃくえむ。』で陸上の話を描いてから一転、中世ヨーロッパの天文学という、かけ離れたジャンルにチャレンジされた理由はなぜでしょうか?
魚豊:『ひゃくえむ。』で青春部活ものを描きましたので、次は人が死ぬようなサスペンスにも挑戦したくなりました。
中世のヨーロッパって、自然科学の知性と、暴力的なフィジカルが渾然一体と結びついています。そのアンバランスさが、現代から見たら面白く映るのではと。
──どのあたりに魅力を感じたのでしょうか?
魚豊:天動説から地動説へ移行する、知の感覚が大きく変わる瞬間がいいんですよね。哲学と結びついて、「コペルニクス的転回」や「パラダイムシフト」って言葉が生まれるくらいの衝撃を与えました。その瞬間が面白くて、漫画にしようと決意しました。
──古い価値観である天動説で、地動説を唱える人たちを裁いていく……確かに知性と暴力が混在しています。
魚豊:ただ、弾圧があったような印象を受けるのですが、史実ではどうやら、地動説ってそこまで迫害を受けてはいなかったらしいんですよね。しかし、現代では迫害があったと思い込んでいる人が多い。この勘違いも面白く感じて、テーマにしたい! と思った要因の一つです。
──ガリレオ・ガリレイの宗教裁判を授業で習うと、思い込んじゃいますよね。
魚豊:『チ。』で描かれる迫害はフィクションですが、調べてみると、超安全で気軽に話せる話題ではなかったのは事実だと思います
疫病や戦争で死が近い時代において、最大に勢力を伸ばしたのが宗教だと思います。「なんで死ななきゃいけないんだろう」って疑問に対して「死んだら神の国に行けます」って答えは、強い安心感があったんでしょう。だけど、近代化していくにつれて「死後の国なんかない」という考えが広まっていきます。
──天動説から地動説のように、近代化で人々が気づき始めている。
魚豊:そういう時代の変わり目に、人々の価値観が変わっていく様子をオクジーたちに出そうと心がけています。
図形でもあり、エゴサしづらい。『チ。』に込められた3重の意図
──『チ。―地球の運動について―』というタイトルを決めた理由についてお訊かせください。
魚豊:大「地」以外にも、知性と暴力がぶつかって「血」が流れる。「チ」って日本語に、いろんな意味合いを込めたかったんです。
しかも、カタカナ一文字にしたら、書店に並んでいたら浮いて目立つんじゃないかって狙いもありました(笑)。
──(笑)。22話で「知です」って台詞が出てきて、知識の「知」もかかっていたんだ!って興奮しました。
魚豊:大地のチ、血液のチ、知識のチ。その3つが渾然一体となっているのがこの作品なので、我ながら気に入っているタイトルです。
──この「。」をつけているのが意図を感じるんですけれども。
魚豊:『ひゃくえむ。』でもついていて、単純に句点が好きなんですけども、今回に関して言えば「。」はデザインとしてつけています。
「。」は文章の終わり、停止を意味します。大地が停止している状態を「。」で示していて、そこに地動の線(チ)がヒュッと入ることで、止まっていたものが動く状態になる。「地球は動くのか、動かないのか」を「。」で表現しています。
──なるほど、図形として表現しているんですね。
魚豊:さらに理由があって、「チ。」って一文字ならエゴサしにくい(笑)。僕は影響受けたく無いのでエゴサしたくないタイプなんですが、ついつい反応が気になってエゴサしてしまう時がある、だからこのタイトルにすれば自分に制約をかけて、エゴサしづらくする効果も期待できます。
もっと言えば、読者の皆さんにも「サーチしにくい」体験をしてほしい。そんな意図も込めています。
──どういうことでしょうか?
魚豊:今のネット社会は、スマホで検索すれば、他人の感想に簡単に触れることができます。でもサーチできにくくすることで、自分だけの意見を考えるきっかけになれば嬉しいです。
──それで思い出した台詞が第22話「誰もが簡単に文字を扱えたら、ゴミのような情報で溢れ返ってしまう」。まさに今のネット社会を暗示しているように感じながら読んでいました。
魚豊:文字が溢れかえったことで、フェイクニュースや怪しい情報といったネガティブな面は出てきます。しかし言葉が上級市民だけの時代が良かったのかといえば、そうとも言えません。これは裏表一体。
ヨレンタは文字の可能性を信じているし、バデーニは信じていない。一つの要素に良い面と悪い面が出てくることも、『チ。』のテーマの一つです。
──文字も、使い方次第であると。
魚豊:「パルマコン」っていう、ギリシャ語で「薬」って意味の言葉があるんですが、同時に「毒」って意味も持ち合わせているんです。薬は毒にもなるということを、昔の人たちは知っていました。原子力は生活のエネルギーになる一方で、原爆も作れてしまいます。
文字そのものに善悪はなくて、使い方次第で、悪影響を及ぼせもするし、有用にもなります。二面性やアンビバレントなものを描く欲求が、先ほどのセリフに繋がりました。
──バデーニが感じる組織の窮屈さ、オクジーの自己肯定感の低さ。現代人でも抱える悩みを、中世を舞台にして描かれていて理解しやすいです。
魚豊:たぶん、人間っていつの時代でも同じことで悩んでいるんですよね。プラトンが書いた「ソクラテスの弁明」を読むと、2400年前の本なのに、現代と全く一緒のことが記されているんですよ。
保身的な人がいて、欲深い人がいて、空気を読む人がいて、信念や正義を貫く人がいて。人間の強さと弱さって、昔も今もまったく変わっていませんし、2000年以上前から成長してないとも言えます。
だからこそ、普遍的な悩みは時代を問わないし、いつでも心を動かされるんでしょう。2000年前の言葉が2000年後の誰かを救うことも全然ありえることで、それはいい事だと思います。
コルベの描き方が見事にハマった瞬間
──担当編集者から見た本作の魅力について伺いたいのですが、どこに魅力を感じられていますか?
チヨダ(担当編集):知性もテーマにしている『チ。』ですが、実のところ知性を超えて、信念や美学を貫く狂気に震えます。代表的なのは、1巻のラファウの「美しいと、思ってしまうッ!!」というシーンです。「しまうッ!!」の一瞬。私にとっては一番好きなシーンであり、見どころじゃないでしょうか。
テラモト(担当編集):私はラファウの「燃やす理屈、なんかより!! 僕の直感は、地動説を信じたい!!」が良いですね。
確かに、理屈よりも直感を信じるべき時もあります。その方がカッコよく生きられるんじゃないかって、心を揺さぶられる見開きになっていてグッとくるんです。
──唇の片方を歪ませている表情にも信念が籠もっていて、こだわりを感じます。
魚豊:僕は歪んでるものの方が好みで、「上手」「器用」ってものに昔から惹かれないんです。この歪んでいる表情にも、自分の好みが出たのかなって、今ご指摘をされて気づきました。
──現代はラファウのように効率よく、要領よく世間を渡っていく考え方。最適解を求める方法論が支持されがちだと感じているのですが、そこに対しては懐疑的でらっしゃるんですか?
魚豊:「要領よくやる」の前に「何をやりたいか」って問いが先にくるハズなんですよ。そのやりたい事のために要領よくやるのはいいんです。
ただ単に「要領よくやる」ことが、手段ではなく目的になってしまっているのを見ると、それはちょっと違うんじゃないかなって感じます。
テラモト:もうひとつ、好きなシーンを言わせてください。ヨレンタに、バデーニとオクジーが地動説の話をしにくるところ。
最初は「バレたらヨレンタのせいにすればいい」って言っていたバデーニが、会談後には「研究者だからだ。」って彼女への見方が変化している。ヨレンタへの評価が「女」から「研究者」に変わる瞬間、気持ちいいんですよね。
──わかります! バデーニは頭が回りますし、優秀な人物ですよね。
魚豊:でも傲慢でイヤな性格なんで(笑)。でも、そういう欠点がある方が人間味があるんですよ。短所も愛せるキャラクター作りは目指してるものの一つです。完璧に良い性格だと「本心からホントに言ってるの? なにか裏があるんじゃないの?」って嘘くさく見えてしまうというか。
──ヨレンタは善人ですよね。
魚豊:だからヨレンタは内面的に描きにくいところがあります。すごく良い子なので、「こんな人いるかな? こんな扱いをされたら絶対ムカつくに違いないのに」とか。
魚豊:僕の考えが性悪説なんでしょうね、善人は作り物っぽく見えてしまう懸念があるんです。でも読者の皆さんには好感を持って頂けてると聞くキャラクターなので嬉しいです。
──ヨレンタの欠点を無理やり探すとしたら?
魚豊:真面目すぎるところですかね。反対に、コルベはめちゃくちゃ描きやすいんですよ。「どこの組織にもいるでしょ、こんな奴!」みたいな(笑)。コルベは良い行いをしていると信じて、論文の名前を自分の名前に書き換えてますからね。僕自身にも、きっとそういうところがあるっていうのも含めて描きやすかったです
──自覚がないのが一層、タチが悪いんですよね。
魚豊:そうそう。コルベは描きながら「これはキたでしょ!」って会心の出来でした(笑)。リベラルぶってるヤツが実は駄目だった、女性蔑視してないつもりで蔑視している人が上手く描けました。さっきも言いましたが、こういうパターナリスティックな一面はきっと僕にもあるのでリアルに描けたと思います
──ヨレンタを守ってるつもりで、一番の差別主義者だったっていう。
魚豊:それは現代にも通じる問題だと感じます。「それが悪意だったらどれほどよかっただろう」っていう、ヨレンタのシーンは切実に描けたという感覚があります。
魚豊:ヨレンタと同じような気持ちを経験した人はいっぱいいると思いますし、それは本当にどうしようもないことです。悪意がない分、より一層の醜悪さが浮き彫りになる。行き場のない挫折が描けて、あのセリフは我ながらお気に入りです。
お気に入りは異端審問官のノヴァク。平凡なサラリーマンがモチーフ!?
──作者が予定していなかった、意外な展開があれば教えて下さい
魚豊:コルベですね、本当にそこばっかりで恐縮なんですけど(笑)。
コルベは、最初ただの嫌なヤツとしてデザインしました。だけど途中で、自分は善人だと思い込んでいるんだけど、それゆえに悲劇的なキャラに変えたのが見事にハマったんです。悪意でヨレンタの研究を邪魔するのではなく、善意でやっていることが、結果的に彼女の妨害に繋がってしまう。
魚豊:「女性ごときが学問なんかするな!」って悪意が強すぎると、寧ろ作り物に感じてしまう。今の時代、女性差別主義者を描くんだったら逆の方向だよね、と担当編集さんと話し合いました。
「もちろん女性の人権も大事です、女性にも生きる権利はある!」いや、それ当たり前だから、なんで許可が必要なんだよっていう話で。
──人権擁護のようで、差別意識を前提としたアウトの発言。
魚豊:そうそう。そんな人物像が閃いて、コルベは悪意に寄りすぎていたのを、善に戻したら、ただの悪役では無い存在感のあるキャラに育ちました。
──先生のお気に入りの人物はいらっしゃいますか?
魚豊:ノヴァクっていう異端審問官が気に入ってますね。異端審問官というと、教義に殉じる狂信者のイメージが思い浮かぶと思うんです。ところがノヴァクは「めんどくせー」って言いながら上から命令されないと仕事しない、フラットな人物。
──現代のサラリーマンっぽいです。
魚豊:そうです。異端審問官は実存した職業なんですけど、それをサラリーマンっぽく描いています。もしも某作品の野原ひ○しが異端審問官をやっていて、彼が敵になったら……みたいなイメージで描いてました。
──(笑)。彼は殺人に対しても淡々と業務をこなしているのが逆に迫力あります。
魚豊:それはナチスのアドルフ・アイヒマンがモチーフになっています。人殺しに鈍感になっていて、「歯車としてやることはやります、でも家族は愛しています」みたいな人物ですね。
──次にピャストについてですが、悲しい幕引きになりました……。
魚豊:パラダイムシフトが起きて情報が更新されると、大抵の場合振り返る必要がないものになります。残酷ですけど、科学には必要な過程だと思います。
──「不正解の道に進んでも、無意味を意味しない」ってことで、納得するしかないんでしょうか。
魚豊:本当にそうだとも思いますし、ピャストは選択したことによって、後悔はないというか。自分のやりたい道を選べたなら、それでいいじゃないかって気がします。
©魚豊/小学館
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