2020.09.08
30代半ば、ふたりの女性は恋に落ちた──人間ドラマの名手がほろ苦い葛藤を描く“大人百合”『おとなになっても』志村貴子【おすすめ漫画】
『おとなになっても』
先月第3巻が発売された志村貴子先生の『おとなになっても』に、夢中になっています。
恥ずかしながら志村先生の作品には、これまでアニメでしか触れてこなかったのですが、アニメ化された『青い花』と『放浪息子』の主人公はいずれも10代の学生。
対する『おとなになっても』で恋に落ちるふたりの女性はどちらも30代半ば。物語を通して描かれる葛藤も、少し違っていました。
惹かれ合ったふたりの女性、しかしひとりには秘密が……?
ダイニングバーで働く平山朱里と、小学校教師をしている大久保綾乃。ふたりは朱里の働くダイニングバーで出会い、その日のうちに、惹かれ合います。
最初に口説いたのは、綾乃を「ちょっと好きなタイプかも」と感じた朱里。しかし、おとなしそうな外見や言動とは裏腹に積極的な綾乃に、次第にペースを乱されます。これが朱里の気持ちをさらに燃え上がらせることに。
完全に“その気”になっていた朱里ですが、後日、ダイニングバーに来店した綾乃は、なんと男性とのふたり連れ。接客にあたりながらも唖然とする朱里に、綾乃は目をそらしたまま、「……主人です」と告げるのでした。
過去の恋愛、夫の存在──歩んできた人生によって葛藤するふたり
登場人物たちが10代ならば、はじめての恋への初々しい戸惑いや、未発達な自我の成長といった部分が描かれることでしょう。
女性同士の恋愛をリアルに描くとなれば、セクシュアリティにまつわる葛藤だってあるかもしれません。しかし、朱里と綾乃は様々な人生経験を重ねてきた大人。そしてこの“重ねた人生経験”こそが彼女たちの葛藤に繋がっています。
朱里はこれまでにいくつもの恋愛を経験し、自分の恋愛対象が女性だと知っている。そして、一度恋に落ちると、運命を感じてしまうほどに夢中になってしまう“惚れっぽさ”も自覚している。だから、恋愛をするときは傷つかないように、慎重に……したかったからこそ、綾乃の上げて落とすような仕打ちに憤慨。
しかし一度スイッチが入ってしまった気持ちは上手く抑えることもできず、頭を悩ませます。
一方の綾乃は朱里に口説かれてはじめて、自分が“女性もイケる”ことに気づいたタイプ。朱里にはときめいてしまったけれど、家庭を手放すつもりもない。どっちつかずな感情がくすぶった綾乃は、ついに夫である渉にも事情を打ち明けてしまいます。そして騒動はやがて渉の母親の耳にも入り……。
朱里は「これまでの恋愛での失敗」が、綾乃は「夫がいて、その家族とも親交があること」が、それぞれの葛藤の少なくない部分を占めていると言えるでしょう。みずみずしい恋愛模様も魅力的ですが、経験的、社会的な蓄積によってがんじがらめになっている本作の恋愛もまた、じんわりとした辛さが、読み進めるほどに心地よくなっていくような良さがあります。
それでも恋は素晴らしい……ときめく展開から目が離せない!
それでいて、恋に落ちてしまったときに感じるときめきは、どんな理屈を並べたところで決して抗えない素晴らしいもので……そのどうしようもない喜びに満ちた幸福な描写も、本作にはたくさんあります。
3巻のクライマックスで描かれる、朱里の感情の昂りの「理屈の無さ」「説明の付かなさ」は、その性質から描くことが困難な個人的な感覚を見事に読者に伝えきる、圧巻の表現と言えるのではないでしょうか。めちゃくちゃキュンとしてしまいました。
いろいろなしがらみはあるけれど、それでも恋にはなにものにも代えがたい喜びがあって、そこにだけは年齢は関係なくて……タイトルである『おとなになっても』は、そういう部分に掛かっているのかなと、感じます。
綾乃の気持ちを試すような行動をしてしまう渉(そういった行動は自信の無さから来ているように感じられ、個人的には嫌いになれません)や、渉の妹であり、引きこもりの恵利など、ほかの登場人物も大人になりきれない未熟さを抱えていて。
でも、新しい出会いなどの切っ掛けで、それらには少しずつ折り合いがついていくのかもしれない。
ほろ苦さもあるけれど、それらに勝る、人生経験の積み重ねを前向きに捉えたくなる優しい空気が、この作品には満ちています。そして責任ある大人の恋愛だからこそ、それでも抗えない“恋がもたらすときめき”は、なおさら輝いて見えるようにも、思います。
大人の女性同士の恋の行方と、彼女たちを取り巻く人々が織りなすドラマ。これから描かれるすべてから、目が離せません。
©志村貴子/講談社